人間らしさとは?
書いておかないと忘れそうなので、メモ書き。
「人間らしさ」と書くと「人間」と「人間じゃないもの」を大きく区別する特徴が「人間」には存在するという言ことになる。
それは何か?
ぱっと思いつくのは、以下2点だろう。
1.「人間らしさ」とは、情動である。
他者を思いやるやさしさ=愛。
他者をうらやむ、嫉妬、怒り、笑ったり、泣いたり。
人間は他の動物よりも情動が明らかに豊かだ。
さみしくて悲しさを表現する動物はいるだろう。
うれしさを表現する動物もいるだろう。
しかし、他者を思って涙を流す動物がいるとは今のところ思えない。
さらに上位の笑う動物はちょっと考えられない。
人間はこれからもっと多様な感情を手に入れるのではないか、とずっと前から思っている。
2.「人間らしさ」とは、理性である。
論理的に考える力は人間が他者を圧倒する特徴だからだ。
感性に邪魔されず、思考することが可能であることが人間らしさゆえに、昔から物事を客観的に見れることが重要とされてきた。
さて、このままだと『ゆらプラ』には使えない。
1の情動は置いといても、2の理性については、それを突き詰めていくと人工知能の追求=人間らしさの追求である、ということと同義語になってしまうからだ。
これでは『ゆらプラ』のテーマにそぐわない。
また、1の情動の件も、感情的なことを人間的と評するのも納得感が薄い。
でも、全てを論理的に考えるのではなく、愛(や怒り)などの情動によって、行動が個々の人間では異なるというのは少し納得感があるなぁ。
それはさておき『ゆらプラ』の基本は、個々人の悟性と悟性の共鳴によって共感が発生する、というものになる予定だ。
ただし、悟性=大局観=シナリオ思考には、目的が必要となる。
逆説的には目的的に思考できない人には大局観を理解すること自体が難しいと考えて言う。
目的的じゃない=無関心度が高い人物ということになるがそういう人はどんなふうに解釈すればよいのか。
それはさておき2、1の情動が人間らしさとしたときに、SoWhat?(=それで何なの?)
きれいにまとめようとすると、情動による行動の”ゆらぎ”(=個人差)が人間らしさ、という方がよくて、この行動の揺らぎが多様性である、というのがいい感じか。
そうすると『人間らしさ』が行動の多様性であり、行動の多様性が変化への適応性を高めるとするならば、より優れた変化への適応性(=Adaptive)が生き残る道であるとなる。
いい感じに頭の中では整理が進むが、最終的な落としどころは、AI時代の人間生き残りのためには、人間特有の共感力(=お互いを理解しあう)の強化が重要である、というところ。
結果、ニュータイプが生まれ、駆逐を恐れたオールドタイプとの間に宇宙世紀0079年、後世に「一年戦争」と呼ばれる戦いが起きるのである。
共感力の強化はAIに対する圧倒的なAdvantageである。
理性と感性の組合せにより、悟性が創造され、総じて知性(=Intelligence)になると括れば、知性の拡大がAI時代を生き抜くためには重要であり、共感力の強化につながる、そんな感じ?
だいぶまとまってきたなぁ。
知能は、答えがある問題に対して回答する能力とすれば、
知性は、答えがない問題に対して回答する能力となる。
おっ、もう少しで完成しそうだ。
でもさすがに疲れたので今日はここまで。
しゃべり場!(古~)